『考古学という可能性』
2010年9月5日http://4urpet.net/
『考古学という可能性』
福田 敏一 編 2008 『考古学という可能性 -足場としての近現代-』 雄山閣(東京)本書と本書の姉妹編である福田敏一編2007『考古学という現代史 -戦後考古学のエポック-』とは、当初単独の書籍として企画されていたが、諸般の事情により二分冊として刊行された経緯が記されている。その当初の企画での前半に相当するのが『可能性』(事例編)であり、後半部分が『現代史』(学史編)とされ、当初用意された「まえがき」は前半を担う『可能性』に、「あとがき」は後半の『現代史』に掲載されている。しかし出版時期は、これまた諸般の事情により後半部分の『現代史』(学史編)が若干先行して2007年12月に、前半部分の『可能性』(事例編)が2008年1月と年を跨いで、当初企画された内容とは前後逆に刊行されている。本書『可能性』(事例編)には、やや長文の「まえがき」と5本の論考によって構成されている。五十嵐 彰 「日本考古学」の意味機構 :13-32.編者による「あとがき」の紹介によれば「近現代考古学に関する認識論のエッセンスを集約したもの」(237.)とのことである。「エッセンス」とは「本質」とか「精髄」という意味だから、それをさらに「集約」したものとは、一体いかなるものなのだろうか。当人の総体的意図としては、先史中心という<考古イデオロギー>(五十嵐2004b:343.)すなわち「「時間遡及相関価値付与説」(五十嵐2005)」(24.)に対する脱構築を目指したものだったのだが。青木 祐介 近代都市の考古学 -横浜の近代遺跡をめぐって- :33-68.横浜における近代<遺跡>調査の現状と課題について述べられている。重要なのは、最初と最後に述べられている「近代文化遺産(歴史的建造物)」と「近代遺跡(埋蔵文化財)」との相互関係である。それは「これからの近代遺跡をめぐる最大の課題である「遺跡の周知化」の問題、何を近代遺跡の対象とするのかという問題」(63.)である。永田 史子 農村の考古学 -農家にみる近代- :69-83.多摩における養蚕炉を通じて農家の近代について述べられている。ここでも問われているのは「それ(戦跡や近代化遺産など;引用者挿入)だけを記録の対象とするならば、考古資料から描けるのは、大規模なモニュメントばかりが突出した近現代史でしかなくなってしまう」(82.)という危惧である。江浦 洋 戦争の考古学 :85-141.大阪における「遺跡分布図にはないもう一つの遺跡」(86.)の事例紹介である。「陸軍第四師団経理部被服倉庫跡の調査」については、小田ほか編2006『陸軍墓地がかたる日本の戦争』に関連してかつて言及した【07-05-21】。福田 敏一 鉄道の考古学 -汽車土瓶研究覚え書- :143-235.「汽車土瓶を通して描かれる近代の日本の社会とはいかなる相貌を呈し、それは将来の日本社会・経済・文化形成に如何なる意味を有するのか」という「最終的な目標に到達するための一階梯として」(145.)すなわち「基礎的作業としてこれを取り巻く諸認識を提示したもの」(144.)である。結論として示されるのは「「生産」面と「廃棄」面に注目した編年的側面の研究は(中略)、時間軸確立のためにはほとんど役に立たない。むしろその作業は、(中略)本末転倒的な仕儀となる可能性が大きい。」(223.)という注目に値する見解である。「しからば近現代社会における汽車土瓶研究は如何なる意味をもち得るのであろうか」「汽車土瓶研究における考古学的アプローチはいかにして可能か、という問いに答えること」(同)、これこそ80頁にもわたる論考を読み進めてきた読者の一番知りたいことであろう。そうした「汽車土瓶研究の最大の課題」を「クリアーすべく」示される筆者の見解は、「現在確認されている出土汽車土瓶の実見」、「産地同定作業」、「弁当店の探索」(224.)である。最後に、一見些細なことに見えて、実は極めて重要な本質的な問題を孕んでいる事柄について触れておこう。「なお、本文中にみられる鉄道駅の開設年、弁当店の創業年等の年代表記については、和暦のみで西暦を併記していない。原資料および証言の尊重以外に他意はないが、西暦への換算は読者においてなされたい。」(福田:145.)これは、別の箇所(7.)で表明されたようにブルクハルト流歴史観(歴史主義)といった意味合いからなされている訳ではないようだ。なぜならば、「他意はない」とされているのだから。しかしそれでもあえて西暦を「併記」しない十分な理由にはなり得ないように思われる。また実際には混在もしている(146,197,225.)。他の著者においても、おおまかに日本における事例については「元号」を主体に、海外における事例については「西暦」を主体として使い分け、その実、混在していることも多い。「さて、認識票に記載された死亡年月日を見てみると、最古の死亡年月日は1942年1月9日になる。(中略)最新の死亡年月日が昭和20年9月3日であることは、少なくともそれ以降に作製したということもこれを裏付けており、先に検討した航空写真とも矛盾しない。」(江浦:119-120.)行政文書ならともかく、それ以外の著書・論文などで近現代に関する年代表記や時代区分にあえて「元号」を用いるということは、歴史に関わる表現者として、ある特定の意思表示を行なっていると受け取らざるを得ない。「文筆者が「元号」をつかうことは、「元号」の定着に加担することである。」(キム チョンミ1996「「元号」使用者の思想と感性」『故郷の世界史』現代企画室:226.)「元号を使う歴史観」については、【07-10-05】記事に関するコメント(五十嵐:07-10-06)における引用文を参照のこと。
『考古学という可能性』
福田 敏一 編 2008 『考古学という可能性 -足場としての近現代-』 雄山閣(東京)本書と本書の姉妹編である福田敏一編2007『考古学という現代史 -戦後考古学のエポック-』とは、当初単独の書籍として企画されていたが、諸般の事情により二分冊として刊行された経緯が記されている。その当初の企画での前半に相当するのが『可能性』(事例編)であり、後半部分が『現代史』(学史編)とされ、当初用意された「まえがき」は前半を担う『可能性』に、「あとがき」は後半の『現代史』に掲載されている。しかし出版時期は、これまた諸般の事情により後半部分の『現代史』(学史編)が若干先行して2007年12月に、前半部分の『可能性』(事例編)が2008年1月と年を跨いで、当初企画された内容とは前後逆に刊行されている。本書『可能性』(事例編)には、やや長文の「まえがき」と5本の論考によって構成されている。五十嵐 彰 「日本考古学」の意味機構 :13-32.編者による「あとがき」の紹介によれば「近現代考古学に関する認識論のエッセンスを集約したもの」(237.)とのことである。「エッセンス」とは「本質」とか「精髄」という意味だから、それをさらに「集約」したものとは、一体いかなるものなのだろうか。当人の総体的意図としては、先史中心という<考古イデオロギー>(五十嵐2004b:343.)すなわち「「時間遡及相関価値付与説」(五十嵐2005)」(24.)に対する脱構築を目指したものだったのだが。青木 祐介 近代都市の考古学 -横浜の近代遺跡をめぐって- :33-68.横浜における近代<遺跡>調査の現状と課題について述べられている。重要なのは、最初と最後に述べられている「近代文化遺産(歴史的建造物)」と「近代遺跡(埋蔵文化財)」との相互関係である。それは「これからの近代遺跡をめぐる最大の課題である「遺跡の周知化」の問題、何を近代遺跡の対象とするのかという問題」(63.)である。永田 史子 農村の考古学 -農家にみる近代- :69-83.多摩における養蚕炉を通じて農家の近代について述べられている。ここでも問われているのは「それ(戦跡や近代化遺産など;引用者挿入)だけを記録の対象とするならば、考古資料から描けるのは、大規模なモニュメントばかりが突出した近現代史でしかなくなってしまう」(82.)という危惧である。江浦 洋 戦争の考古学 :85-141.大阪における「遺跡分布図にはないもう一つの遺跡」(86.)の事例紹介である。「陸軍第四師団経理部被服倉庫跡の調査」については、小田ほか編2006『陸軍墓地がかたる日本の戦争』に関連してかつて言及した【07-05-21】。福田 敏一 鉄道の考古学 -汽車土瓶研究覚え書- :143-235.「汽車土瓶を通して描かれる近代の日本の社会とはいかなる相貌を呈し、それは将来の日本社会・経済・文化形成に如何なる意味を有するのか」という「最終的な目標に到達するための一階梯として」(145.)すなわち「基礎的作業としてこれを取り巻く諸認識を提示したもの」(144.)である。結論として示されるのは「「生産」面と「廃棄」面に注目した編年的側面の研究は(中略)、時間軸確立のためにはほとんど役に立たない。むしろその作業は、(中略)本末転倒的な仕儀となる可能性が大きい。」(223.)という注目に値する見解である。「しからば近現代社会における汽車土瓶研究は如何なる意味をもち得るのであろうか」「汽車土瓶研究における考古学的アプローチはいかにして可能か、という問いに答えること」(同)、これこそ80頁にもわたる論考を読み進めてきた読者の一番知りたいことであろう。そうした「汽車土瓶研究の最大の課題」を「クリアーすべく」示される筆者の見解は、「現在確認されている出土汽車土瓶の実見」、「産地同定作業」、「弁当店の探索」(224.)である。最後に、一見些細なことに見えて、実は極めて重要な本質的な問題を孕んでいる事柄について触れておこう。「なお、本文中にみられる鉄道駅の開設年、弁当店の創業年等の年代表記については、和暦のみで西暦を併記していない。原資料および証言の尊重以外に他意はないが、西暦への換算は読者においてなされたい。」(福田:145.)これは、別の箇所(7.)で表明されたようにブルクハルト流歴史観(歴史主義)といった意味合いからなされている訳ではないようだ。なぜならば、「他意はない」とされているのだから。しかしそれでもあえて西暦を「併記」しない十分な理由にはなり得ないように思われる。また実際には混在もしている(146,197,225.)。他の著者においても、おおまかに日本における事例については「元号」を主体に、海外における事例については「西暦」を主体として使い分け、その実、混在していることも多い。「さて、認識票に記載された死亡年月日を見てみると、最古の死亡年月日は1942年1月9日になる。(中略)最新の死亡年月日が昭和20年9月3日であることは、少なくともそれ以降に作製したということもこれを裏付けており、先に検討した航空写真とも矛盾しない。」(江浦:119-120.)行政文書ならともかく、それ以外の著書・論文などで近現代に関する年代表記や時代区分にあえて「元号」を用いるということは、歴史に関わる表現者として、ある特定の意思表示を行なっていると受け取らざるを得ない。「文筆者が「元号」をつかうことは、「元号」の定着に加担することである。」(キム チョンミ1996「「元号」使用者の思想と感性」『故郷の世界史』現代企画室:226.)「元号を使う歴史観」については、【07-10-05】記事に関するコメント(五十嵐:07-10-06)における引用文を参照のこと。
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